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2011-11-15

Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives (Apichatpong Weerasethakul, 2010)

人間の目は緑色に対する感度が高いという。我々はやはり森の生き物だったのだろうか。多様な緑の陰影と濃淡の中で生まれ、獣を狩り草木の実を摘み拾って、食べては眠り、交わり別れながら、いつか死んで森に同化していく。緑の世界は我々のアルファでありオメガであるのかも知れない。つまりそこは我々の揺籃であり、墓であったのだ。生と死の対立は、また自他の相違でさえも、果てしなく続く緑の繊細な陰影に同化して輪郭を失っていくだろう。そのような世界から追放されて文明は築かれた。無数の塔に囲まれて洞窟は遠い。

2011-11-07

Acrophobia by Penguin Villa

Acrophobia by Penguin Villa from "Uncle boonmee who can recall his past lives"

2011-11-03

Mirror (Andrei Tarkovsky, 1974)

アンドレイ・タルコフスキーの『鏡』は、二十世紀後半に作られた最も美しい映画のひとつだ。突風になびく草原、燃え上がる納屋、部屋の中に降る雨、寝台の上に浮遊する身体、ブリューゲルの絵画を思わせる雪景色、様々なかたちでふとした瞬間に現れる不思議な鳥、朽ちた井戸、あらゆる水、火、風、緑、光、等々。ひとつひとつの映像が魔術的強度をもって観る者に迫る。

しかしそれだけではない。幻想を伴う追憶と進行しつつある現在との交錯、そこに挿入される歴史的記録映像との切り返しから、意識ある存在の時空連続体的本質が顕現するのを鑑賞者は見守ることになるだろう。
また母と妻、父と息子という、私的であると同時に普遍的であり、対立的であると同時に鏡像的でもある関係性が、まさに映画的な話法によって多重に織り合わされていくのを目の当たりにしながら、特定の地域や個人という枠が知らぬ間に解消されていることにも気付くだろう。

映画と列車は似ている。どちらにも時刻表がある。人々は同時に集まり、同時に別れる。四角く切り取られた景色が刻々と予定どおりに変わっていく。時には雨が降る。稀に事故も起こる。ふいに止まり、燃え上がる。この映画も例外ではない。しかしその線的な制約を超える道を選ぶ自由が作り手にはある。例えば吃ることを話法におけるひとつの可能性として示すこと。乱反射する物語。鏡。

ところで中世ロシアのイコン画家アンドレイ・リュブリョフと、イタリア・ルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチの違いは何か?リュブリョフは画僧であり、ダ・ヴィンチは技師にして職業画家であった。リュブリョフのイコンは聖像であり、ダ・ヴィンチの絵画は宗教的主題でさえも肖像的であった。リュブリョフは真理に仕え、ダ・ヴィンチは真実を探した。二人は異なる原理を生きたのだ。それを父と母の違いになぞらえることは誤りだろうか?その適否はともかく、二人の間に生まれた子供はどのように生きることを選ぶだろうか?父が姿を消した時代の中で。

映画の中で朗読されるアンドレイの父アルセー二・タルコフスキーの詩のひとつが、幸いにも英訳されていたのでここに添えておく。

1

I don't believe in omens or fear
Forebodings. I flee from neither slander
Nor from poison. Death does not exist.
Everyone's immortal. Everything is too.
No point in fearing death at seventeen,
Or seventy. There's only here and now, and light;
Neither death, nor darkness, exists.
We're all already on the seashore;
I'm one of those who'll be hauling in the nets
When a shoal of immortality swims by.

2

If you live in a house - the house will not fall.
I'll summon any of the centuries,
Then enter one and build a house in it.
That's why your children and your wives
Sit with me at one table, -
The same for ancestor and grandson:
The future is being accomplished now,
If I raise my hand a little,
All five beams of light will stay with you.
Each day I used my collar bones
For shoring up the past, as though with timber,
I measured time with geodetic chains
And marched across it, as though it were the Urals.

3

I tailored the age to fit me.
We walked to the south, raising dust above the steppe;
The tall weeds fumed; the grasshopper danced,
Touching its antenna to the horse-shoes - and it prophesied,
Threatening me with destruction, like a monk.
I strapped my fate to the saddle;
And even now, in these coming times,
I stand up in the stirrups like a child.

I'm satisfied with deathlessness,
For my blood to flow from age to age.
Yet for a corner whose warmth I could rely on
I'd willingly have given all my life,
Whenever her flying needle
Tugged me, like a thread, around the globe.

Life, Life by Arseny Tarkovsky

2011-10-25

Kent Rogowski

Kent Rogowski - Bears (2007)

Code inconnu (Michael Haneke, 2000)

原題 Code inconnu: Récit incomplet de divers voyages
英訳 Code Unknown: Incomplete Tales of Several Journeys
邦訳 未知なる暗号:それぞれの未完の旅物語

移民、難民、亡命者、不法滞在者、旅行者が街路で交錯するパリは異邦人の都だった。様々に異なる言語、習慣、道徳、世界観、その間に横たわる格差。芸術と哲学は文化の相違を超える方法として信じられていた。世界の多様な音楽や舞踊が街頭で同時多発的に繰り広げられるWorld Music Day(Fête de la Musique)もパリから始まった(1982年)。音は連なる窓や扉を震わせて、区画された空間を通り抜け、拡がりながら減衰し、痕跡もなく消える。後には何か聴こえたという記憶だけ。その記憶も少しづつ崩壊して別の記憶と織り合わされ、思い返すたびにかたちを変えながら、いつか神話のようなものに近付いていくのかも知れない。しかしそれはまだ遠い先のことだ。生々しく衝突する未知の記号の群れで綴られた、痛ましく尽きることない街路の暗号を解読する鍵はまだ誰の手にもない。知ろうとして知り得ず、退けながら歩み寄り、断絶してなお語らいを求める。我々は等しく聾者の群れである。

2011-10-07

AntiChrist (Lars von Trier, 2009)




不注意によって子供を死なせ向精神薬依存と不安発作に苦しみながら、セラピストの夫と共に森の中の「エデン」と呼ばれる場所を再訪した妻は、夫による心理療法の過程で「自然は悪魔の教会」とつぶやく。この短い台詞が、映画『Antichrist』の驚くべき深みを伝えている。その後の展開は凄惨を極めるのだが、畏敬の念からこれ以上は書きたくない。先の台詞と作品の印象から思い浮かんだことを書き並べてみる。

自然は善悪を分け隔てない。ただ季節の巡りと急な異変の訪れによって、あらゆる生き物にもたらされる滅びと栄えの連鎖だけがあった。そこに壁で周囲を囲み、法令と戒律で組織された領域が現れる。善悪の観念はそこから生まれた。悪は壁の外に広がる混沌から獣のように忍び込み、善なる秩序を絶えず乱す。病疫、狂疾、異教。秩序の維持と拡大が平和の意味であるならば、監視、排除、討伐の必要が疑われることはない。殺戮は対象を悪に定めることで正当化される。

ルネサンス以後、宗教改革と前後して欧州に拡がった人災と言うべき魔女狩りは、十字軍の東方遠征などに伴う異文化流入への苛烈な反作用であったように思われる。わずかでも集団から外れた者や奇異な者には嫌疑がかかり、裁判から拷問を経て処刑された。世代に関わりなく、その多くは女性、一部に男性の他、相当数の動物も含まれていたという。風評や策略の犠牲者も少なくなかっただろう。火と水と鉄が拷問と処刑の両方に用いられた。

太古の母権性社会が神話的伝説のみ残して消滅した後、ほぼ100年前まで女性に参政権を認めた国家はなく、古典古代の諸社会、特に都市国家アテナイの女性は一切の社会的権利を持たなかった。家事と労働を除いて、女性に与えられた唯一の役割は「神々」の託宣を伝え、あるいは神秘的交接によって力を授ける神殿の巫女であった。この「神々」とは神格化された自然の諸要素に他ならず、また異郷の神々を習合することで数を増した。男尊女卑の背後で、女性は人知と未知の境界上に場所を定められていたのである。

もしも男性が秩序と理性を象徴するのであれば、女性は必然と情動を象徴すると言えるだろうか。秩序が混沌に帰すのは必然である。滅亡する国家、炎上する都市、腐爛する屍体、忘却される知識。しかし再生もまた必然である。例えば焦土から芽吹く草木……。自然は生と死のどちらに焦点を絞るかで正反対の顔を見せる。そしてどちらの顔も、その背後に人知の及ばぬ先を隠している。

なお映画は以下のように構成されている。

序章/Prologue
第一章 悲嘆/Grief
第二章 苦痛(混沌の支配)/Pain (Chaos Reigns)
第三章 絶望(殺戮)/Despair (Gynocide)
第四章 三人の乞食/The Three Beggars
終章/Epilogue

第四章の標題にある〈三人の乞食〉とは「悲嘆」「苦痛」「絶望」であり、さらにそれらを象徴する動物に関連付けられる。
序章と終章に台詞はなく、無彩色の映像にヘンデルのオペラ『Rinaldo/リナルド』(1711)で歌われるアリア「Lascia ch’io pianga/涙流れるままに」が重ねられる。歌詞を添えておこう。

Lascia ch'io pianga mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà!

Il duolo infranga queste ritorte
de miei martiri sol per pietà.

泣かせ給え我が定めを、
嘆かせ給え自由無き身を!

我が苦しみ哀れみて
この軛解き給え。



追記

1. キリスト教的伝統の外側で育った者としては「Antichrist/反キリスト」の概念をうまく捉えることができない。単に「キリストの教えに背く者」というだけでは何の説明にもならないだろう。辛うじてわかるのは「反キリスト」が信徒にとって最悪の汚名であることだ。「Antichristianity/反キリスト教」あるいは「Antiecclesia/反教会」ならば個人的には納得できるのだが。

2. キリストは神の子であることに今更ながら気がついた。神は父であり天である。とすれば反キリストは大地であり母である悪魔の子と言えるのか。



ヘシオドスの『神統記』による世界の創世は、天空の男性神ウラノスと大地の女性神ガイアとの交接、生まれた子供達を冥界に落とすウラノスに対するガイアの怒り、ガイアの命を受けて末子クロノスが果たすウラノスの去勢という経過を辿る。海に投げ捨てられたウラノスの陰茎は無数の泡に包まれ、そこから美の女神アフロディテ(ヴィーナス)が誕生したという。また後にはゼウスの頭から都市の守護女神アテーナーが武装した姿で誕生した。およそギリシア神話の女神達は記号的性を与えられた男性原理に他ならない。しかしウラノスを生んだのはガイアなのである。

続く