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2011-09-29

Schick Machine

Excerpts from The Paul Dresher Ensemble Production of Schick Machine
Performed By Steven Schick

Zimoun + Hannes Zweifel

200 prepared dc-motors, 2000 cardboard elements 70x70cm, 2011

2011-09-28

Fabio Novembre


服は着るものの思想を表す、知的行為だ。ファッションはその人のステートメント。誰がデザインしているかや、ブランドの企業ポリシーまでも考えて服を選んでる。だから服は人格を語るとも言える。一枚のTシャツにだって、その人の考えがうかがえる。それは文化であり知的行為なんだ。

fabio novembre (architect)

2011-09-27

Metronomy - Everything Goes My Way

Circles

Xenakis - Psappha

Performed By Steven Schick

The Idiots (Lars von Trier, 1998)


若者は社会に反抗する。ここでの社会とは若者を抑圧する総てを指す。若者の反抗は一種の生理である。老いてなお反抗する者は思想を持つ。思想とは、ある理念によって生き方を根底から変え、それを継続することだ。思想がなければ妥協か転向を選ぶ他ない。しかし若者の思想は多くの場合、反抗の装飾であってその理由ではない。それ故、若者による反社会集団は往々にして短命に終わる。

 ラース・フォン・トリアーの映画“The Idiots(愚者たち)”に登場する若者たちの反抗集団は、偽りの障害者養護団体として寄生的な共同生活を続けながら、公共の場で愚者(知的障害者)を演じて騒乱を引き起こし、困惑する人々を嘲笑する。彼らは社会における愚者に理想の人間性を見出し、生活に飼い馴らされた自我を愚者として開放しようと試みているかに見える。しかし実状は共犯意識から生れる擬似家族的な連帯感への耽溺、または生活からの逃避でしかない。それぞれが帰属する社会=生活の中で、彼らは誰一人として「愚者」であるべき自分を示すことができない。彼らにとっての「愚者」とは結局のところ、集団であるが故に匿名の反抗=悪ふざけを特徴付けるひとつの様式に過ぎなかったことが明らかになってしまう。集団は崩壊する。成員は各々の生活に戻り、首謀者の青年が残される。彼等が共に暮らした家は、青年の叔父が売りに出している大きな庭付きの邸宅であった。

 この映画は集団の行状にほとんどの時間を割いている。しかし中核に据えられているのは、主人公としてはあまりにも控え目な一人の中年女性である。旅行者とも思われる彼女は、たまたま食事に訪れたレストランで件の「活動」を展開する集団に巻き込まれ、何故か行動を共にするようになるが、いつも傍観者に留まり、賞賛も非難もしない。ただ彼女は時間の経過とともに、およそ無言のまま、集団を構成する個々の人物に対する母性的な愛情を育んでいた。まさに集団が消滅しようとする別れの間際に、彼女が一人ひとりの名を挙げながら、それぞれの心的特質を賞賛していく場面は不思議に美しく心を打つ。彼女の社会的背景は最後に明かされる。証人を連れてその場に戻った彼女は、ひとり愚者として振る舞い始める。その悲痛な姿と冷たい反応、そして決別。彼女に帰る場所はあるのか。彼女はなぜ集団と共にいたのか。そしてなぜ彼女は誰もが怖れて避けた恥辱を一身に引き受けねばならなかったのか。時間にしてわずか数秒の場面にその答えがある。

 最後に書き添えておくが、この映画には大きな亀裂がある。現実の知的障害者が集団の住む家を唐突に訪問する場面である。事前に何も知らされていなかった俳優達は、彼等を前にして思わず演技を忘れたという。映画の外側からやって来た障害者の屈託ない笑顔は驚くほど眩しい。それにしても幸福とは何か。