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2012-02-08

the Movie title stills collection













A Collection Containing Hundreds of Main Titles from Feature Films from Classic and Recent Films.
Fantastic!! :)

the Movie title stills collection

2011-12-27

Yumurta (Semih Kaplanoglu, 2007)



イスラム世界では、かたちある総てのものを神の顕現と見る。喩えるならば一切の存在はビーズの首飾りであり、神はその糸である。糸が消えれば首飾りは散乱し、世界は原子の砂漠と化して小石ひとつ残らない。裏返せば、小石のような取るに足らない物でさえも神の恩寵、奇跡、神秘として捉えられる。

トルコの映画監督セミフ・カプランオールによる〈ユスフ三部作〉の第一作「卵 Yumurta)」を観ながらまず思い起こしたのは、このような世界観であった。物語を要約すると、イスタンブールで古書店を経営する中年男ユスフが母の訃報を受けて故郷に帰り、しばらくそこで過ごすという、それだけの話になってしまう。トルコに固有の風土や風習は興味深いが、そこにも焦点はない。宗教への視点も傍観的と言える。ただ心許なくも上記に挙げたイスラム的存在論の濃密な気配が、映画全体を覆っているように感じられた。

そのように感じた要因は、まず何よりも映像の中心から外れた部分に見られる細部の際立った美しさであり、その細部に観衆の注意を促すかのような、この映画に固有の話法(あるいは演出)にあるのではないかと思われる。状況説明的な描写や台詞はすべて省かれ、様々なことが不明のまま進行する物語に沿って現れる、ごく小さな辺縁の要素を拾い集めるうちに、男の素性や周囲との関係性が緩やかに判明していく。そしてしばしば現れる極端に長い(ほとんど静止画のような)映像に直面すると、知らぬ間に手掛かりを探す目で映像の細部をくまなく捜査している自分に気付かされるのである。しかしそこに手掛かりはない。むしろそれは物語に設けられたどこかへの窓であり扉なのだ。

〈ユスフ三部作〉は数を追って主人公の人生を遡る。第一作「卵」のユスフは壮年期、第二作「ミルク」は青年期、第三作「蜂蜜」は幼少期を扱っている。ところがそれぞれの背景となる時代は制作年とほぼ同一に設定されている。「卵」は2007年、「ミルク」は2008年であり、特に「蜂蜜」では冒頭の場面で幼いユスフに暦を読ませ、それが西暦2009年(ヒジュラ歴1430年か)であることを観衆に周知させている。こうして物語の中心人物であるユスフの人生は、時間がもたらす因果の檻から外れて宙を漂い始める。ユスフとは誰なのか、もはや誰にも判らない。さらに三部作全体を通して、既視感を覚えつつ相互に照応する要素を随所に発見する時、無言の啓示に満たされた世界の謎に接している感覚が募るのを意識せずにはいられなくなる。

2011-11-15

Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives (Apichatpong Weerasethakul, 2010)

人間の目は緑色に対する感度が高いという。我々はやはり森の生き物だったのだろうか。多様な緑の陰影と濃淡の中で生まれ、獣を狩り草木の実を摘み拾って、食べては眠り、交わり別れながら、いつか死んで森に同化していく。緑の世界は我々のアルファでありオメガであるのかも知れない。つまりそこは我々の揺籃であり、墓であったのだ。生と死の対立は、また自他の相違でさえも、果てしなく続く緑の繊細な陰影に同化して輪郭を失っていくだろう。そのような世界から追放されて文明は築かれた。無数の塔に囲まれて洞窟は遠い。

2011-11-03

Mirror (Andrei Tarkovsky, 1974)

アンドレイ・タルコフスキーの『鏡』は、二十世紀後半に作られた最も美しい映画のひとつだ。突風になびく草原、燃え上がる納屋、部屋の中に降る雨、寝台の上に浮遊する身体、ブリューゲルの絵画を思わせる雪景色、様々なかたちでふとした瞬間に現れる不思議な鳥、朽ちた井戸、あらゆる水、火、風、緑、光、等々。ひとつひとつの映像が魔術的強度をもって観る者に迫る。

しかしそれだけではない。幻想を伴う追憶と進行しつつある現在との交錯、そこに挿入される歴史的記録映像との切り返しから、意識ある存在の時空連続体的本質が顕現するのを鑑賞者は見守ることになるだろう。
また母と妻、父と息子という、私的であると同時に普遍的であり、対立的であると同時に鏡像的でもある関係性が、まさに映画的な話法によって多重に織り合わされていくのを目の当たりにしながら、特定の地域や個人という枠が知らぬ間に解消されていることにも気付くだろう。

映画と列車は似ている。どちらにも時刻表がある。人々は同時に集まり、同時に別れる。四角く切り取られた景色が刻々と予定どおりに変わっていく。時には雨が降る。稀に事故も起こる。ふいに止まり、燃え上がる。この映画も例外ではない。しかしその線的な制約を超える道を選ぶ自由が作り手にはある。例えば吃ることを話法におけるひとつの可能性として示すこと。乱反射する物語。鏡。

ところで中世ロシアのイコン画家アンドレイ・リュブリョフと、イタリア・ルネサンスの万能人レオナルド・ダ・ヴィンチの違いは何か?リュブリョフは画僧であり、ダ・ヴィンチは技師にして職業画家であった。リュブリョフのイコンは聖像であり、ダ・ヴィンチの絵画は宗教的主題でさえも肖像的であった。リュブリョフは真理に仕え、ダ・ヴィンチは真実を探した。二人は異なる原理を生きたのだ。それを父と母の違いになぞらえることは誤りだろうか?その適否はともかく、二人の間に生まれた子供はどのように生きることを選ぶだろうか?父が姿を消した時代の中で。

映画の中で朗読されるアンドレイの父アルセー二・タルコフスキーの詩のひとつが、幸いにも英訳されていたのでここに添えておく。

1

I don't believe in omens or fear
Forebodings. I flee from neither slander
Nor from poison. Death does not exist.
Everyone's immortal. Everything is too.
No point in fearing death at seventeen,
Or seventy. There's only here and now, and light;
Neither death, nor darkness, exists.
We're all already on the seashore;
I'm one of those who'll be hauling in the nets
When a shoal of immortality swims by.

2

If you live in a house - the house will not fall.
I'll summon any of the centuries,
Then enter one and build a house in it.
That's why your children and your wives
Sit with me at one table, -
The same for ancestor and grandson:
The future is being accomplished now,
If I raise my hand a little,
All five beams of light will stay with you.
Each day I used my collar bones
For shoring up the past, as though with timber,
I measured time with geodetic chains
And marched across it, as though it were the Urals.

3

I tailored the age to fit me.
We walked to the south, raising dust above the steppe;
The tall weeds fumed; the grasshopper danced,
Touching its antenna to the horse-shoes - and it prophesied,
Threatening me with destruction, like a monk.
I strapped my fate to the saddle;
And even now, in these coming times,
I stand up in the stirrups like a child.

I'm satisfied with deathlessness,
For my blood to flow from age to age.
Yet for a corner whose warmth I could rely on
I'd willingly have given all my life,
Whenever her flying needle
Tugged me, like a thread, around the globe.

Life, Life by Arseny Tarkovsky

2011-10-25

Code inconnu (Michael Haneke, 2000)

原題 Code inconnu: Récit incomplet de divers voyages
英訳 Code Unknown: Incomplete Tales of Several Journeys
邦訳 未知なる暗号:それぞれの未完の旅物語

移民、難民、亡命者、不法滞在者、旅行者が街路で交錯するパリは異邦人の都だった。様々に異なる言語、習慣、道徳、世界観、その間に横たわる格差。芸術と哲学は文化の相違を超える方法として信じられていた。世界の多様な音楽や舞踊が街頭で同時多発的に繰り広げられるWorld Music Day(Fête de la Musique)もパリから始まった(1982年)。音は連なる窓や扉を震わせて、区画された空間を通り抜け、拡がりながら減衰し、痕跡もなく消える。後には何か聴こえたという記憶だけ。その記憶も少しづつ崩壊して別の記憶と織り合わされ、思い返すたびにかたちを変えながら、いつか神話のようなものに近付いていくのかも知れない。しかしそれはまだ遠い先のことだ。生々しく衝突する未知の記号の群れで綴られた、痛ましく尽きることない街路の暗号を解読する鍵はまだ誰の手にもない。知ろうとして知り得ず、退けながら歩み寄り、断絶してなお語らいを求める。我々は等しく聾者の群れである。

2011-10-07

AntiChrist (Lars von Trier, 2009)




不注意によって子供を死なせ向精神薬依存と不安発作に苦しみながら、セラピストの夫と共に森の中の「エデン」と呼ばれる場所を再訪した妻は、夫による心理療法の過程で「自然は悪魔の教会」とつぶやく。この短い台詞が、映画『Antichrist』の驚くべき深みを伝えている。その後の展開は凄惨を極めるのだが、畏敬の念からこれ以上は書きたくない。先の台詞と作品の印象から思い浮かんだことを書き並べてみる。

自然は善悪を分け隔てない。ただ季節の巡りと急な異変の訪れによって、あらゆる生き物にもたらされる滅びと栄えの連鎖だけがあった。そこに壁で周囲を囲み、法令と戒律で組織された領域が現れる。善悪の観念はそこから生まれた。悪は壁の外に広がる混沌から獣のように忍び込み、善なる秩序を絶えず乱す。病疫、狂疾、異教。秩序の維持と拡大が平和の意味であるならば、監視、排除、討伐の必要が疑われることはない。殺戮は対象を悪に定めることで正当化される。

ルネサンス以後、宗教改革と前後して欧州に拡がった人災と言うべき魔女狩りは、十字軍の東方遠征などに伴う異文化流入への苛烈な反作用であったように思われる。わずかでも集団から外れた者や奇異な者には嫌疑がかかり、裁判から拷問を経て処刑された。世代に関わりなく、その多くは女性、一部に男性の他、相当数の動物も含まれていたという。風評や策略の犠牲者も少なくなかっただろう。火と水と鉄が拷問と処刑の両方に用いられた。

太古の母権性社会が神話的伝説のみ残して消滅した後、ほぼ100年前まで女性に参政権を認めた国家はなく、古典古代の諸社会、特に都市国家アテナイの女性は一切の社会的権利を持たなかった。家事と労働を除いて、女性に与えられた唯一の役割は「神々」の託宣を伝え、あるいは神秘的交接によって力を授ける神殿の巫女であった。この「神々」とは神格化された自然の諸要素に他ならず、また異郷の神々を習合することで数を増した。男尊女卑の背後で、女性は人知と未知の境界上に場所を定められていたのである。

もしも男性が秩序と理性を象徴するのであれば、女性は必然と情動を象徴すると言えるだろうか。秩序が混沌に帰すのは必然である。滅亡する国家、炎上する都市、腐爛する屍体、忘却される知識。しかし再生もまた必然である。例えば焦土から芽吹く草木……。自然は生と死のどちらに焦点を絞るかで正反対の顔を見せる。そしてどちらの顔も、その背後に人知の及ばぬ先を隠している。

なお映画は以下のように構成されている。

序章/Prologue
第一章 悲嘆/Grief
第二章 苦痛(混沌の支配)/Pain (Chaos Reigns)
第三章 絶望(殺戮)/Despair (Gynocide)
第四章 三人の乞食/The Three Beggars
終章/Epilogue

第四章の標題にある〈三人の乞食〉とは「悲嘆」「苦痛」「絶望」であり、さらにそれらを象徴する動物に関連付けられる。
序章と終章に台詞はなく、無彩色の映像にヘンデルのオペラ『Rinaldo/リナルド』(1711)で歌われるアリア「Lascia ch’io pianga/涙流れるままに」が重ねられる。歌詞を添えておこう。

Lascia ch'io pianga mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà!

Il duolo infranga queste ritorte
de miei martiri sol per pietà.

泣かせ給え我が定めを、
嘆かせ給え自由無き身を!

我が苦しみ哀れみて
この軛解き給え。



追記

1. キリスト教的伝統の外側で育った者としては「Antichrist/反キリスト」の概念をうまく捉えることができない。単に「キリストの教えに背く者」というだけでは何の説明にもならないだろう。辛うじてわかるのは「反キリスト」が信徒にとって最悪の汚名であることだ。「Antichristianity/反キリスト教」あるいは「Antiecclesia/反教会」ならば個人的には納得できるのだが。

2. キリストは神の子であることに今更ながら気がついた。神は父であり天である。とすれば反キリストは大地であり母である悪魔の子と言えるのか。



ヘシオドスの『神統記』による世界の創世は、天空の男性神ウラノスと大地の女性神ガイアとの交接、生まれた子供達を冥界に落とすウラノスに対するガイアの怒り、ガイアの命を受けて末子クロノスが果たすウラノスの去勢という経過を辿る。海に投げ捨てられたウラノスの陰茎は無数の泡に包まれ、そこから美の女神アフロディテ(ヴィーナス)が誕生したという。また後にはゼウスの頭から都市の守護女神アテーナーが武装した姿で誕生した。およそギリシア神話の女神達は記号的性を与えられた男性原理に他ならない。しかしウラノスを生んだのはガイアなのである。

続く

2011-09-27

The Idiots (Lars von Trier, 1998)


若者は社会に反抗する。ここでの社会とは若者を抑圧する総てを指す。若者の反抗は一種の生理である。老いてなお反抗する者は思想を持つ。思想とは、ある理念によって生き方を根底から変え、それを継続することだ。思想がなければ妥協か転向を選ぶ他ない。しかし若者の思想は多くの場合、反抗の装飾であってその理由ではない。それ故、若者による反社会集団は往々にして短命に終わる。

 ラース・フォン・トリアーの映画“The Idiots(愚者たち)”に登場する若者たちの反抗集団は、偽りの障害者養護団体として寄生的な共同生活を続けながら、公共の場で愚者(知的障害者)を演じて騒乱を引き起こし、困惑する人々を嘲笑する。彼らは社会における愚者に理想の人間性を見出し、生活に飼い馴らされた自我を愚者として開放しようと試みているかに見える。しかし実状は共犯意識から生れる擬似家族的な連帯感への耽溺、または生活からの逃避でしかない。それぞれが帰属する社会=生活の中で、彼らは誰一人として「愚者」であるべき自分を示すことができない。彼らにとっての「愚者」とは結局のところ、集団であるが故に匿名の反抗=悪ふざけを特徴付けるひとつの様式に過ぎなかったことが明らかになってしまう。集団は崩壊する。成員は各々の生活に戻り、首謀者の青年が残される。彼等が共に暮らした家は、青年の叔父が売りに出している大きな庭付きの邸宅であった。

 この映画は集団の行状にほとんどの時間を割いている。しかし中核に据えられているのは、主人公としてはあまりにも控え目な一人の中年女性である。旅行者とも思われる彼女は、たまたま食事に訪れたレストランで件の「活動」を展開する集団に巻き込まれ、何故か行動を共にするようになるが、いつも傍観者に留まり、賞賛も非難もしない。ただ彼女は時間の経過とともに、およそ無言のまま、集団を構成する個々の人物に対する母性的な愛情を育んでいた。まさに集団が消滅しようとする別れの間際に、彼女が一人ひとりの名を挙げながら、それぞれの心的特質を賞賛していく場面は不思議に美しく心を打つ。彼女の社会的背景は最後に明かされる。証人を連れてその場に戻った彼女は、ひとり愚者として振る舞い始める。その悲痛な姿と冷たい反応、そして決別。彼女に帰る場所はあるのか。彼女はなぜ集団と共にいたのか。そしてなぜ彼女は誰もが怖れて避けた恥辱を一身に引き受けねばならなかったのか。時間にしてわずか数秒の場面にその答えがある。

 最後に書き添えておくが、この映画には大きな亀裂がある。現実の知的障害者が集団の住む家を唐突に訪問する場面である。事前に何も知らされていなかった俳優達は、彼等を前にして思わず演技を忘れたという。映画の外側からやって来た障害者の屈託ない笑顔は驚くほど眩しい。それにしても幸福とは何か。