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2011-10-07

AntiChrist (Lars von Trier, 2009)




不注意によって子供を死なせ向精神薬依存と不安発作に苦しみながら、セラピストの夫と共に森の中の「エデン」と呼ばれる場所を再訪した妻は、夫による心理療法の過程で「自然は悪魔の教会」とつぶやく。この短い台詞が、映画『Antichrist』の驚くべき深みを伝えている。その後の展開は凄惨を極めるのだが、畏敬の念からこれ以上は書きたくない。先の台詞と作品の印象から思い浮かんだことを書き並べてみる。

自然は善悪を分け隔てない。ただ季節の巡りと急な異変の訪れによって、あらゆる生き物にもたらされる滅びと栄えの連鎖だけがあった。そこに壁で周囲を囲み、法令と戒律で組織された領域が現れる。善悪の観念はそこから生まれた。悪は壁の外に広がる混沌から獣のように忍び込み、善なる秩序を絶えず乱す。病疫、狂疾、異教。秩序の維持と拡大が平和の意味であるならば、監視、排除、討伐の必要が疑われることはない。殺戮は対象を悪に定めることで正当化される。

ルネサンス以後、宗教改革と前後して欧州に拡がった人災と言うべき魔女狩りは、十字軍の東方遠征などに伴う異文化流入への苛烈な反作用であったように思われる。わずかでも集団から外れた者や奇異な者には嫌疑がかかり、裁判から拷問を経て処刑された。世代に関わりなく、その多くは女性、一部に男性の他、相当数の動物も含まれていたという。風評や策略の犠牲者も少なくなかっただろう。火と水と鉄が拷問と処刑の両方に用いられた。

太古の母権性社会が神話的伝説のみ残して消滅した後、ほぼ100年前まで女性に参政権を認めた国家はなく、古典古代の諸社会、特に都市国家アテナイの女性は一切の社会的権利を持たなかった。家事と労働を除いて、女性に与えられた唯一の役割は「神々」の託宣を伝え、あるいは神秘的交接によって力を授ける神殿の巫女であった。この「神々」とは神格化された自然の諸要素に他ならず、また異郷の神々を習合することで数を増した。男尊女卑の背後で、女性は人知と未知の境界上に場所を定められていたのである。

もしも男性が秩序と理性を象徴するのであれば、女性は必然と情動を象徴すると言えるだろうか。秩序が混沌に帰すのは必然である。滅亡する国家、炎上する都市、腐爛する屍体、忘却される知識。しかし再生もまた必然である。例えば焦土から芽吹く草木……。自然は生と死のどちらに焦点を絞るかで正反対の顔を見せる。そしてどちらの顔も、その背後に人知の及ばぬ先を隠している。

なお映画は以下のように構成されている。

序章/Prologue
第一章 悲嘆/Grief
第二章 苦痛(混沌の支配)/Pain (Chaos Reigns)
第三章 絶望(殺戮)/Despair (Gynocide)
第四章 三人の乞食/The Three Beggars
終章/Epilogue

第四章の標題にある〈三人の乞食〉とは「悲嘆」「苦痛」「絶望」であり、さらにそれらを象徴する動物に関連付けられる。
序章と終章に台詞はなく、無彩色の映像にヘンデルのオペラ『Rinaldo/リナルド』(1711)で歌われるアリア「Lascia ch’io pianga/涙流れるままに」が重ねられる。歌詞を添えておこう。

Lascia ch'io pianga mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà!

Il duolo infranga queste ritorte
de miei martiri sol per pietà.

泣かせ給え我が定めを、
嘆かせ給え自由無き身を!

我が苦しみ哀れみて
この軛解き給え。



追記

1. キリスト教的伝統の外側で育った者としては「Antichrist/反キリスト」の概念をうまく捉えることができない。単に「キリストの教えに背く者」というだけでは何の説明にもならないだろう。辛うじてわかるのは「反キリスト」が信徒にとって最悪の汚名であることだ。「Antichristianity/反キリスト教」あるいは「Antiecclesia/反教会」ならば個人的には納得できるのだが。

2. キリストは神の子であることに今更ながら気がついた。神は父であり天である。とすれば反キリストは大地であり母である悪魔の子と言えるのか。



ヘシオドスの『神統記』による世界の創世は、天空の男性神ウラノスと大地の女性神ガイアとの交接、生まれた子供達を冥界に落とすウラノスに対するガイアの怒り、ガイアの命を受けて末子クロノスが果たすウラノスの去勢という経過を辿る。海に投げ捨てられたウラノスの陰茎は無数の泡に包まれ、そこから美の女神アフロディテ(ヴィーナス)が誕生したという。また後にはゼウスの頭から都市の守護女神アテーナーが武装した姿で誕生した。およそギリシア神話の女神達は記号的性を与えられた男性原理に他ならない。しかしウラノスを生んだのはガイアなのである。

続く